1月 | 7日 | 鹿島神宮白馬祭(茨城県鹿島市) |
4月 | 第一日曜日 又は三月 第四日曜日 |
木曽義仲公追悼鎌形八幡宮“桜”流鏑馬 (埼玉県比企郡嵐山町) |
第一土曜日 | 熊谷桜やぶさめ (埼玉県熊谷市桜まつり) |
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第三土曜日 | 武蔵国を発展させた桓武平氏、秩父一族追悼 小鹿野流鏑馬祭(埼玉県秩父郡小鹿野町) |
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5月 | 1日 | 将門公を討った藤原秀郷公がはじめた騎射神事を 鹿島家が鹿島惣大行事家として引き継ぐ。 鹿島神宮(武道の神様)御田植祭 鹿嶋流騎射うまゆみ 奉納(茨城県鹿島市) |
3年に一回 | 白河上皇が京都ではじめた行事 京都での城南 流鏑馬(流鏑馬発祥の地ー城南宮) |
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6月 | 第一日曜日 | 沼津流鏑馬 昭和天皇追悼行事 |
8月 | 第二土曜日 | 佐野市秀郷まつり 藤原秀郷公追悼 秀郷流流鏑馬 (栃木県佐野市唐澤山神社) |
10月 | 第一又は 第二日曜日 |
八王子流鏑馬 (東京都八王子市元八王子 梶原八幡神社) |
第三日曜日 | 上田城流鏑馬 (長野県上田市真田神社) |
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第四日曜日 | 井伊直弼公追悼 彦根城流鏑馬 | |
11月 | 第一又は 第二日曜日 |
畠山重忠公追悼 嵐山流鏑馬 (甲冑やぶさめー埼玉県比企郡嵐山町菅谷館跡) |
第三土曜日 | 河越一族追悼 河越流鏑馬 (埼玉県川越市河越館跡) |
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12月 | 12月4日 | 秩父夜まつり「秩父神社流鏑馬」(日本三大曳山祭りのひとつ) (於 御旅所) |
4月 | 第二日曜日 | 居合道祖、林崎甚助終焉之地 川越市蓮馨寺で居合道古流派演武会 |
9月 | 2日 | 鹿島神宮大祭ノ日に鹿島神傳直心影流奉納演武会 |
第二土曜 ・日曜日 |
居合道祖林崎甚助生誕之地 林埼居合神社で居合道古流演武会 |
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10月 | 第三日曜日 | 東都の中心、明治神宮奉納居合抜刀道全国大会 |
11月 | 第三日曜日 | 蓮馨寺三道場居合道奉納会 |
平成24年度 武道振興會の行事ポスター及びパンフレット | ||||
鎌形流鏑馬 4月1日(日) |
小鹿野流鏑馬 4月21日(土) |
鹿島神宮うまゆみ 5月1日(火) |
佐野秀郷流鏑馬 8月11日(土) |
鹿島神宮 鹿島神傳 直心影流奉納 9月2日(日) |
明治神宮 居合抜刀道大会 10月28日(日) |
嵐山甲冑流鏑馬 11月4日(日) |
河越流鏑馬 11月17日(土) |
平成二十四年度 「うまゆみ並流鏑馬行事」より |
2013年(平成25年度) の「流鏑馬暦」から |
やぶさめ暦より |
武道振興會 代表 森 顯
平安京に都を移した第五十代桓武天皇は東国強化のため、自身の子孫を東に送り込む。その桓武平氏は、秩父や小鹿野地域を拠点に力を蓄え、武蔵国の発展に寄与した。そして常陸国に広がり、その流れは鹿島家に発展する。当会の活動は、毎年一月七日に鹿島神宮の白馬祭にて人馬共初詣をした後、木曽義仲の生誕地埼玉県比企郡の鎌形八幡宮で奉納して、西秩父小鹿野の地で武蔵ノ祖秩父一族を追悼する流鏑馬を行い、五月一日鹿島神宮で流鏑馬を奉納する事を慣わしとしている。尚も栃木県佐野市にある藤原秀郷の居城跡、唐澤山神社で鹿嶋流の源流、秀郷流を探す行事が続く。この活動は日本の文化遺産である武之道を検証しようと、武神、鹿島宮の元で、鋭く研ぎ澄ました感性と豊富な知性を養い、運動能力に富んだ肉体に、勇気と共に強靭な精神力で結合させる作業である。古の武者達は明日の命はないかもしれぬ戦場では、気が上がり平常心を失うが、自身の乱れる心を治める法もまた武之道。神は人間にどの位の可能性を与えたのか試みたい。鹿島神傳之剣を伝える百錬会赤尾勇一会長から「剣之理である法定之形で木剣を上半圓から頭上に翳す時、修行者は神々の元締めである天之御中主神になりきる」と十五代山田次朗吉や十七代大西英隆師々からの言い伝えを聞く。だからお祓いを受けて、馬上にいる時は自惚れぬ程度に神になりきろうとする。その状態の時、難しい馬からでも皆中する。この事を神懸かりというのか。射手は命をかけて馬に跨り「最高の人間(じんかん)の姿」を武神に見せられるように奉納努力が続く。この危険が伴う神事には、宮側の神職と奉納側の武芸者の意志の疎通が肝心。中世の鹿島では祝部と武人は一体であった。「神之道」と「武之道」は鹿島の両輪。
昔から剣術の源は「鹿島七流京八流」といわれ、馬上での太刀術であった古式鹿嶋流は室町期に徒歩剣術に変貌した。義経が京都の山奥、鞍馬寺で修めた「京八流」を基にして、鬼一法眼から六韜三略極意書を手に入れ平家追討祈願に際して鹿島神宮に奉納したと伝わる。鹿島家筆頭家老松本備前守は鹿島神宮の祝部として、この伝書を研鑚して鹿島七流と京八流をまとめて法定という鹿嶋流の原形を現し「鹿島神流」と名づけた。鹿島神傳法定春夏秋冬の四形、八相発破・一刀両断・右轉左轉・長短一味の理法は、鹿島神流目録の中で「大自然運行の理法は発顕、還元、推進であり、動静一体・起発一体・攻防一体・虚実一体・陰陽一体の『五ヶ之法定』」と説かれる。鹿嶋流の剣術は七流というが、第七代目山田一風斎が定めた「鹿島神傳直心影流」とト伝の「鹿島新當流」そして「鹿島神流」が本流として残る。他に鹿島神傳二代上泉伊勢守が柳生家に伝えた新陰流、タイ捨流や鹿児島に伝わる示現流まで影響を与えていると伝わる。この鹿島神傳直心影流や鹿島神流に伝わる理合を馬術や騎馬術に取り入れたいと修業に取り組む。鹿島神流の云い伝えに「当流の抜刀術ではその昔、鹿島神宮の御祭神、武甕槌神が天照大神の御稜威を蒙り、諸々の禍津日神を御剣を以て祓い鎮めた神業に創り、これを御剣祓い又は御太刀祓いと呼び、代々鹿島神宮に伝わる鹿島之太刀に渕源する。現今、御神饌を祓い清めたり、神官が御祓いの行事を執り行う時、修祓といって幣祓いを行うが、その手振り作法はこの御剣祓いに由来する。その作法は、先づ幣を推し戴き、右に持ちかえ、尚、拝礼して大神の御稜威を蒙り、左を祓い、右を祓い、又左を祓い、そして右横一文字に祓ってから納める。これは禍津日神や罪、汚れ等を祓い放しで打拂う丈では再び仇をなす恐れがあり、大神の御精神により仇は許して順がわせ、汚れは清めて禍津日神は根の国、底の国に鎮めて、雲散霧消してしまおうと、大祓の祝言の精神を内容とする。即、祓いの最後に行う横一文字は、一旦打ち祓つたものを許し助けて順ろわす神業である。日本神武、又は真武は祓いの精神であり、敵対者に対しては、自他共存の道を生み出す使命である。したがつて包容同化の具現でなければならない。真武は言挙げせぬ業ともいい、己の心の非を断ち、人の心の非を斬るものと教へている。大事なことは徒らに対立的、侵略的精神を培ったり、倒敵の愉悦を好むものでなく、常に私闘を慎め、止むを得ざる場合に於てのみ一殺多生を以て平和に寄与することである。」これこそ鹿島神宮の源、鹿嶋流の奥儀であると悟る。鹿島神流では祓太刀、鹿島神傳では右剣左剣と云う。鹿嶋流古剣術を基にして武芸十八般という色々な稽古法に騎馬術の併修を続けて「日本の真理」を探す。それぞれの分岐した「道の理合」をまとめ、身を持って国摩真人が拘った鹿島精神に触れていきたい。
高校教育で必須の柔道で受け身と巴投げを習って海外生活で役立つ。三島由紀夫の生き様に酔った若き頃、同じ空手道場に入門して武道の魔力を感じた。やがて「武之道」を子育てに用いたいと、明治神宮で合気道や鹿島神流の世界に入った。そして、子より自分が鹿島神流の不思議な理合に夢中になり、父からの鹿島神宮への称賛の言葉とは心身の中で一致してくる。500年前に松本備前守が国摩真人(くになつのまびと)の鹿島流を進化させ、鹿島流の中興の祖、国井善弥が伝えた剣体術の表裏一体の理合が興味深い。国井師は若い頃馬庭念流の修業をしていたと聞く。やがて鹿島剣術の主流、鹿島神社と同源の鹿島神傳直心影流に興味を持ち、法定の形稽古で学んだ瞬発力や深くて長い息の出し入れの呼吸法を坐りからの居合術に取り入れ、刀の運用に強弱・緩急をつける。鹿島神傳流祖、松本備前守は鹿島流を塚原ト伝(鹿島新當流祖)に伝えた。敵討ちを果たした後、剣術修行のため鹿島神宮に参籠していた居合道之祖、林崎甚助重信は「鹿島ノ一之太刀」を学んだと伝わる。林崎はその太刀を工夫して『古事記』にもある初発刀(しょはっと)に進化させ居合術を創造したと知る。林崎自身の体験で殺人剣から活人剣へと意識が高まり、居合の極意とは「常に鞘の中に勝を含み、刀を抜かずして天地万物を和するところ」と伝わる。その過程を自らの体を通して体験したいと居合道の門を叩く。ある日、父から家に伝わる剣と軍刀を譲られ、日本刀の美しさに惑わされて、戦国期に信長の家臣が行ったという土壇斬稽古を試みたいと、首や胴体に似せた巻藁や畳、竹を斬り続けて手ノ内や間合を修め体全体を刃筋に合わせる法を知る。今日では居合道は形を、抜刀道は試斬を中心に修錬されているが、居合抜刀道、即ち形も試斬も共に演練し心身を鍛え以て日本古来の和の精神養成を目ざす。幕末剣術界の大家、窪田清音が林崎の剣法口傳を伝える。「居合の上達を試す爲に行ふなら、間合を考へ、居合同様の手の内で、心、気、体を調へ、抜き付けた刀勢、刃筋、斬れ味を見る。物を斬ることばかり考へて力ばかりはいり、第二、第三の太刀、残心も考慮に入れず、見苦しい乱れた姿勢になり勝である。居合を壊すものであってはならない。よくよく居合または正しい剣道を心得た上で据物試しを研究すべき。」この教えを武心に刻んで剣修業は続く。人は生きている限り呼吸と付き合う。この付き合う法が武術やスポーツになると云う。竹刀稽古では呼吸法で出がしらに反応する「気のおこり」から「技のおこり」を心鏡に写す修業なのかもしれない。馬に乗っている時も、馬の「気のおこり」を事前に察して術を繰り出し服従させる。剣の達人は横隔膜が上下に移る間を計って打つそう。打ち間で悩む。竹刀修業を続ければ、何れ相手の呼吸が見えてくると云うが、地稽古で相手の「心の動き」が分かる感性を育てたい。これは居合や試斬稽古では中々修得できない境地。 居合術では一息半で、神前では二息半の自分の間で抜刀できるが、竹刀剣術を学ぶと敵対する相手の間でを想定し「後の先」の瞬間を感じ取り初発刀を始動するから不思議。起発一体。剣術の師は「『後の先』等、甘っちょろい。『先先の先』を目指す様」に指導される。確かに乗馬法も同じ。剣道界重鎮森島健男範士も「竹刀剣道の極意は相打ちの勝ちである」と極意を伝える。打合剣術は長い平和な江戸期に実戦を忘れない様に鹿島神傳の修業法から生まれ、当流内では竹刀を韜という字を用いて「しない」とか「とう」と呼ぶ。江戸初期に唐から帰国した四代小笠原源信斎が創造した韜之形の寸止め稽古が平和な江戸中期に打ち合える様に八代長沼国郷が防具を発明、地稽古に発展させたと聞き、その変革の心を体験したいと竹刀剣術を試す。その昔、足斬りや足を掛け倒して面取りもあったと云う。何でも有が西洋化の波でスポーツ化して面打、小手打、胴打、突き技に限定したとされる。廃刀令後に十四代榊原鍵吉によって行われた撃剣、そして敗戦を乗り越えた近代剣道は、今日二百万人の人達によって修業されている。竹刀剣術の師々に「踏み込みが足りない」「心技体が一致していない」「右拳が強過ぎる」「呼吸が浅い」「腹が張っていない」等と指摘される。流鏑馬中での騎射術では、腹が張っていないと上擦って馬の重心も浮き、土台が不安定だと矢は的を外れる。なぜ移動する馬上で腹が張れて地上で張れないのか。正面に自分より位が高い剣士が立つと、確かに気が上擦り「呼吸が浅くなる」。不思議なものだ。構えれば相手の位が分かる。分かれば負けじとばかり力む。力めば呼吸は短くなり相手に打ち間を与える。竹刀稽古の後は刃筋が定まらず、試斬稽古では思う様に斬れず。抜刀斬術稽古の後は作法が雑になり、居合稽古が定まらない。抜打ちの一刀目に重きを置く居合稽古では、重い刀を右片手で運用する技が多いので右拳が主になり力みが走り、左拳での竹刀の操縦が難しくなる。まだ未熟。剣術は一源なのに古流、竹刀、居合、斬刀の修業法がそれぞれ変化した事実に興味を覚える。
鹿島の霊剣で生まれた太刀は剣術に進化して剣道になった。貧欲に「武之道」を追い求めて古剣術「鹿嶋流」を土台に、居合術、抜刀術、韜剣術という稽古法で剣法の核心に近づき、士(もののふ)が馬上で創り出した業(わざ)に行き着く。武士道の原点は義経がこよなく愛した南部駒の血を引く道産馬や義仲が乗りこなした木曽馬等の、短足で頭でっかちの小さな和駒(日本之馬)上で創造されたと納得して、中世の歴史が埋もれた武蔵の地で絶滅種である和駒七頭を飼育しながら、同志と共に騎馬修業を続ける。武道の丹田と云う意識は、多分平安末期に騎馬武者の出現と共に人馬一体の中でつくられ発達した。馬上で武士が柔らかい膝とドッシリした騎座で、馬背の「振り魂」の様な上下運動の中から腹と云う体の中心点を探り、体の重心を下げて馬の気を降ろす。馬上では誤魔化しは利かず。その緊張感の中で自己に厳しく生死を考えた武士道の原点、武心が育つ。腹からぐっと横隔膜を落として上半身の力を抜き、丹田を起点に体の中心軸に手や腕を巻き付ける様に太刀や長物を扱う。剣道修業で学んだ正中線の大切さを馬術でも使う。左側を弓手、右側を馬手と呼び、乗人の中心軸の使い方を馬は厳しく判断する。馬上で弓を射ち上げる時は、天地―陰陽一体を意識して射手の頭部頂点で天を突き上げ、丹田で地を抑える。人馬の丹田が相通じた時、人馬一体になった射法は美しい。馬は粋に感じ日本之形になる。大坪流では馬を陰、乗人を陽と訳した。弓馬術の理合は各流派によって見解が異なる。他流派は弓術が主で、馬術は従という考え方があるが、当会では弓術も馬術も同化したひとつの理合と捉える。又、歩射と騎射は同じ業とする流派もあるが、当会は別物と考える。歩射である今日の弓道は、射法は本多流、所作は小笠原流に統一すると、明治期に弓道界の重鎮が集まり決められた。弓矢を射つ時、右肘肩を下げる。右肘を下げると力みが両肩から抜けて丹田に落ちて体全体のバランスがよくなる。馬上武芸が淘汰した今日、鹿島神宮の弓の射法は、弓道の所作に囚われず、鹿島神傳法定(ほうじょう)の上半圓(かみはんえん)の理法を基に行う。馬上での騎射は騎座の安定を第一に考えて、踵や親指の付け根を使い両足底で和鐙を踏み込むと重心が足底に落ちる。胸を大きく開き丹田に息吹を吹き込み、右肘で矢を思い切り引かねば、当時の二〇kg以上の弦は引けず。重い弦を不安定な馬上で引く時、お座敷の様な和鐙に射手の足底を吸いつける様に固定させる。尚も、全ての武術は中世の戦場で騎馬武者達が磨き上げた甲冑騎馬術の理合だという前提で、戦場の古絵巻やその描写した古文を分析して馬上で試し実証する。昔の巻絵は教科書として騎馬理合の宝庫である。三〇kgもある兜鎧着用で小さな侍駒に跨る甲冑馬術は、軽量の狩装束とは別物で高度な技である。その重量を支えた腰を鞍壺から浮かせ「立透」法で騎射をするため、武者は馬上でも地上でも足底の使い方を工夫したのであろう。鹿島神傳直心影流の本多健二師に「当流の法定之形での上半圓や下半圓で丹田と足底の間での気の上げ下げを先人達は伝えている。踵を上げて爪先立ちで尻穴をグッと締め上げながら、膝を使って左右と足を前方に出す時に、気は丹田でなく足底まで落とす理合を示す。足底の延長戦にある地球の中心に意識を置く」と指南される。鐡舟会大森曹玄老師の流れをくむ信夫息游師は「人は地上に立つ時前屈みになる。修業前にはこの姿勢を排し、両足の親指を立てると背骨は真っ直ぐ地球の中心に立つ様整体する。」その姿勢から全ては、はじまるとの教え。地表から足底で煮えたぎるマグマのエネルギーを受ける理こそ大自然運行の理法。古流で気を体中にまわす意識を育成中。それに物足りず、真の修行観とは、数々の体験を通じて限界まで追い詰めて、新しい可能性を感じる事だと思う様になる。限界(生と死)の境に自分を置くと、理法に沿った新しいモノが自分の中に沸いてくる。この苦しみの中の快感が何とも美味しい。
馬修業の時は、なるべく自然に近い荒馬に乗る。自然の法則とする駻馬に乗り切れる事は自然界の一員になれると思い込む。禊行の時も一度でも寒いと思うと震えが止まらず、自然に負けないゾと夢中で思うと、自然の中に魂が溶け込む錯覚が起きる。 滝行では滝下に身を置く時、数ある滝筋を頭天や肩 のどこに落とすか意識を集中させながら、やがて身は滝と戦わず心は溶ける様な意識で「自然の流れ」に任せる境地になる。その水中で「なぜ人間はこの浮世に存在するのか」「なぜ快楽を求める肉体は修行という状態に向い合うのか」「なぜ自然界の人間が自然界に回帰しようとするとこんなに辛いのか」とフッと想いが浮び消えて無心になる。その無から魂らしきモノが生まれ、やがて武心に育つ。己は自然界に生かされているんだと気付く。剣と馬の修業は人之道ー鹿嶋流の醍醐味は形や技でもなく、精神と理合から発する武心である事にいつか気付く。騎馬の道は消滅しても、残っている剣之道の修業法をかき集め、先人達の歩んだ道を辿れば、必ずや古の武之道は体感できる。武の理合とは、自然の法則で日本人が生きていく正道。全ての理は一源。「術」とは物理的な業。皆馬に乗れる。矢は的に当たる。日本刀で物は斬れる。その「術」に気の流れと武心を添えて「道」に進化させたい。そんな日本の文化遺産である「道理」を求めて「剣と馬」融合の理合に基づいた修業が滲み出てくる時に、白河法皇が千年前に始めた「流鏑馬の姿」に行き着く。流れを大切に良き伝統は残し悪しき慣習は絶つ。これが鹿島之道と心得る。この国の先達が創造した撓やかな思考に培った不動の哲学は素晴らしい。