『直心影流兵法窮理之巻』の中で、直心影流の道統者を代々紹介している。この流名は「直心影流」ではなく、正式には「鹿島神傳直心影流」である。そして、その流祖の名前である松本備前守を松本か杉本と呼ぶか長い間論争になっているが、宗本部では「松本」と呼ぶ。先代から伝えられている話では、鹿島は当時武道大学といわれる程武道の中心地で、武人を志す修行者達が各地から集まってきていた。あまりにも強い集団なので、その頃の「関東軍の将」武田信玄の要請で傭兵として武田軍に肩入れしていたため、徳川家康軍にも相対していた。家康は、三代奥山休賀斎から当流の手ほどきを受けていた。信玄が亡くなり家康が天下を取ると、当流を恐れて、一時「お止め流」になり禁制された。小笠原源信斎は大陸に避け、家康が亡くなると帰国して、秘太刀一切を授かり、四代道統を継いだ。家康は、徳川御三家の一つを水戸に置いて、鹿島を配下に治め、水戸家初代頼房に命じて、鹿島の伝書をみな焼き捨てたという。この混乱で、松本が杉本になったという。「杉本」という名が用いられているのは、伝書の中だけであり、他の記録は皆「松本」である。「松」を草書で書くと、杉に誤読する程似てくる。長い間何千回と伝書を書き移しているうちに変わってしまったとも推測できる。過去の記録がなくなり、家康の弾圧下で、単純にか意図的に杉本と云う事になったともいえる。しかし、この流派の形と心が、後世の日本人の中に残ることの方が重要である。 |
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鹿島神傳正統者
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この流祖からはじまった十五人の道統者の男達の生きざまを、修業を通して理解する。それぞれ個性豊かで、激動の日本を「剣」を持って生き抜いてきた先輩達である。これからの難しい世界で生きて行かねばならぬ日本人達の参考になり、良いお手本になると思う。窮理之巻(究理傳)からの紹介を混えながら一人ずつ紹介する。 尚、昔の道統者の名はいろいろ多いので、伝書に出てくる名前に統一した。又、出生日、死亡日は明確な証拠が残っておらず、いろいろな説があるが、その中で一番信憑性のある説をとった。尚、当流で修行後、段位「兵法傳位」(二段にあたる)を得た時点で、原文の伝書を授かる事になる。その伝書の訳が次の内容であると理解してもらいたい。 |
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流祖松本備前守紀政元(一四六八・応仁二年〜一五二四・大永四年) 鹿島神流の流祖松本備前守は、伝書では紀政元とある。名はもともと政信であったが、九代将軍足利義尚に拝謁して一字が与えられ、尚勝と名を変えたともいい、又、幼名でもあったという。松本家は代々常陸(茨城県)の鹿島四宿老の一家であり、鹿島神宮の祝部(神官)でもあった。常陸国鹿島城の城主鹿島左衛門太夫は、桓武天皇の末葉である。備前守は日夜鹿島の神前に祈り、是非剣の奥義を授け給えと願をかける。信心の奇特である夜夢を見て、一巻の巻物を授け賜わった。是れ即ち神伝霊剣の太刀筋で、これから法定之形の太刀筋は定ったのである。授った巻物は、源九郎義経の奉納した書で、大公望の六韜三略(りくとうさんりゃく)の伝である。是は鬼一法眼より義経に伝授されたもので、松本はこれを熟練して、剣の奥儀を悟り、名人となった。正しく是は、神より賜わった伝であるということで、この剣の名を称えるのに、神の御陰ということで、神陰流と称した。鹿島流の剣術以外に、長刀、十文字鎗、陣鎌、丘杖、突棒をはじめ、弓馬術に力を入れ、その頃の武士は、すべて習得しなければならなかったので総合武道であった。備前守は、一生の間に槍を持っての合戦は二十三度、高名の手柄を立てたこと二十五度、敵を打取った者は七十六人であるというように武勇の人であったが、最後は、鹿島一族の内紛がもとで、大永四年(一五二四)秋、当主景幹が没した後、弟、鹿島義幹の夜討を迎えて高天原で奮戦した。備前守は槍で横腹を突かれ、五十七歳で討死した。 |
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二代上泉伊勢守藤原秀綱(一五〇八・永正五年〜一五七七・天正五年) 二代上泉伊勢守秀綱、後に武田信玄から一字をもらい信綱とも呼ばれ、松本門下の正統者で兵法の達人であった。父時秀が飯篠長威斎に師事したように、武蔵武士の習いとして秀長と呼ばれた幼年の頃から、備前守について剣を学ぶため鹿嶋に来ていた。その後、天妙老師より禅、鎌倉に出て、念流、そして陰流も修めたとされる。上泉家の剣統は、秀綱の祖父、義秀からはじまり、父、時秀、そして秀綱と三代続き、上泉城中の道場は鹿島大学に並ぶ程栄え、北関東の武術の殿堂でもあった。全国から鹿嶋と同じように剣道修業者が集まった。その中に陰流流祖、愛洲移香斎がいてもおかしくない。移香斎は享徳元年(一四五二)に生まれ、天文七年(一五三八)に年八十七歳で亡くなる。移香斎は秀綱に陰流の奥儀を伝え終ると、静かに大胡城を去ったという。岡山藩士源徳修が著した「撃剣叢談」は、この説を強く後押しする。一方、秀綱は陰流を移香斎の子、元香斎に学んだという説もある。当流十五代山田は「日本剣道史」の中で、元香斎が父の時秀に教え、それが秀綱に伝わったという説をとっている。しかし、どちらにしろ、上泉秀綱は上泉家で相伝されてきた諸流に、備前守から教えられた鹿島之太刀を基盤にして、陰流の長所の部分を統合して理想の兵法を創り出そうとしたと思われる。備前守から伝えられた影響が強いので、鹿島流の二代目道統者と理解されている。上泉は上州の人で、関東管領上杉憲政の家臣である。常陸国三輪の城主、長野信濃守の臣で「武勇の人」であった。永録六年、三輪城は武田信玄に滅ぼされ、城主長野右京進は討死した。信玄は上泉の武勇を惜しみ、臣下に加えようとしたが、上泉は二君に仕えずとして、門人の疋田豊五郎(伊勢守の甥、疋田陰流祖)、神後伊豆守(神陰流祖)を連れて、武者修行に出た。入洛したのは計二回、天亀二年(一五七一)将軍足利義輝に謁し、兵法神陰軍法軍配天下第一の礼を諸国に打納め、正親町天皇の天覧に供し、従四位下武蔵守に任じて、天下に名を顕はした。武者修行して諸国へ行くと、他の諸流と手合せ稽古をするので、神の字を恐れ憚り、流名も新陰流と改めた。最後は柳生で客死した。そのような理由で諸国に門人が多く、三千人を越したという。主な門人は、奥山孫次郎(直心影流三代)、戸田清源(富田流統)、小笠原玄信(直心影流四代)松田織部(松田方新陰流祖)、細野内匠、丸目蔵人(体捨流祖)である。柳生の門人では鈴木兵庫(「柳生文書」の中では、神後の事とされている)柳生又右衛門(柳生新陰流祖)がいる。柳生又右衛門は後に柳生但馬守となった天晴な名人。会津陰流もこの上泉から出ている。塚原ト伝(鹿島新當流祖)は、松本備前守から剣の指導を鹿嶋で受けていたが、その後の諸国修行をしていた時、二十歳年下の上泉と出会って、法定之形を学んでいる。当時は、法定之形の修行のために、各地に四十日から五十日間留まって門人に教えたという。尚、上泉は厳しい修業の過程から、袋竹刀を初めて考案した。これを「信綱韜」と呼んだ。後に、柳生新陰流で使われるようになった。 |
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三代奥山休賀斎平公重(一五二六・大永六年〜一六〇二・慶長七年) 奥山孫次郎兵公重、後に休賀斎と号す。兵法の名人である。名門奥平出羽公の七男である。知名度がある為、世間では新陰流といわず奥山流とも呼ばれ、甚だまぎらわしいことであったが、剣は上泉の正統を承嗣いで、三州奥山に居住し、日夜奥山産神を信心した。兵法の道理を明らかにし、兵法の頭領たらんと、社へ百日参籠して祈願。ある夜夢で神の御託を蒙って、道理は明らかとなり奥儀を得た。これは全く神の影であると新陰の文字を神影と改め、神影流と呼んだ。こうして剣の奥儀が明らかになった後、剣を遣うことは舞を舞い、影が自分の形に従うように、誠に自由自在となるとしている。門人を能く取立てたので、その威勢は東海にとどろき、誰一人敵対する者はなくなった。天正二年十一月二十八日のこと、徳川家康公には、姉川の合戦の後、三州岡崎へ奥山をお召しになり、剣術を観覧の後、家康、秀忠公および一族残らず入門した。天正二年拾一月廿八日、奥山は秀忠公に兵法の奥儀を伝授した後、奥平家に戻った。このように、徳川家は神影流を学んだのであるが、その後三代家光公は、沢庵和尚の推挙によって二代目道統者、上泉から学んだ柳生家を御指範とした。 |
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四代小笠原源信斎源長冶(一五七四・天正二年〜一六四四・寛永二十年) 四代小笠原金左衛門尉源長冶、後に源信斎。小笠原は、三州高天神の城主小笠原与八郎の弟で、今川家の家臣であったが、今川家没落の後浪人した。その後、平法熟達して明国(その頃の中国)へ行き、妙術を得て帰ったといわれている。明国では当時の武備志という書物に、明人長冶より燕飛猿廻の伝を得たと書いてあって、その書物には猿が剣を持った面も伝書も記されてあるが、何分にも明人の書いた物で、伝書の切れ端のようなので文の意味もよく解らない。法定之形は元々五本だったものを、明から帰った後四本に改め、韜之形十四本も小笠原の創作として加えた。また、神影流の流名を直新陰流と改めた。 |
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五代神谷傳心斎平真光(一五八二・天正十年〜一六六三・寛文三年) 幼名は幸之助、長じてから丈左衛門に、後に紙屋とも名乗った。神谷丈左衛門尉平真光傳心斎は、水野出羽守が隼人正と名乗っていた頃の家臣。小さい頃から武芸には熱心で、十五の流儀に渉って修行を重ねたが、小笠原源信斎の弟との勝負に負けて、四十二歳の時に小笠原の門に入った。技に熟練している傳心斎は、「この術は元より神伝の術であるから、無理な業のある筈がない。天然自然の理に従い、赤子の心のように無我無心の生まれついたままの直き心が本意である」と、直新陰の流名を改めて、新陰直心流とした。初めて「直心」という文字を当流名に用いた。門人に教えていうのには、「神は誠に正しく直きもので、人の心もまた同じものである。」後に、「心だに誠の道に叶ひなば 祈らずとても神やまもらん」という心を表わす。そして、新たに直の字を収め入れ、この直き心は即ち誠で、神伝の本意であると教え、流名とした。また、神は心であると、直心の意味から、新たに切落しの業を始めた。師の小笠原がこれを咎めたので、試しに立合って見たところ、実に正統に叶っていて、小笠原は切落しの業に散々に負けた。このように、師に勝る技を持っても、神谷はなお剣の研鑽を重ねた。そして六十七歳にして心の眼を開いた。活眼が開けて見ると、今までの試合勝負は皆外道乱心の業であると悟った。勝つ為に策を籠し、詐術を求めるなど、心の鏡を曇らずことばかり稽古して来た。兵法の根元は、仁義礼智の四徳に基づかねば詐りである。たとえ勝っても真の勝ちではない。欲望を断ち、我を捨てて、直心をもって進むことが、自然に則る道である。要は誠の一字であると悟り、直心を流名とした。悟った後は門人に対しても、「稽古の時に皮具や面棒などを頼りにするな、我が身の防具は直心にある」と教えている。また「一刀両断とは、我が物を切断することである」と心の運用を教えている。意識が昏々として「身は浮島の松の色かな」と幾度も繰り返す中に、眠るが如く八十二歳で大住生を遂げた。 |
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六代高橋直翁斎源重冶(一六一〇・慶長十五年頃〜一六九〇・元禄三年頃) 高橋弾正左衛門尉源重冶直翁斎の出生、死亡日については明確な証拠が残っていない。剣術に目覚めた頃から、神谷傳心斎の門に入り、剣を修めた。寛永年間より元禄にかけて、門人を引連れて、諸方へ剣術を教えに歩いた。この時、剣の流派は益々盛んになり、その数凡そ三百にもなり、中には支流が多く、他流と混交したりして、いい加減な名前を名乗って伝承していた流派が乱立していたので、自らの流儀を直心正統流と改めて、長い間続いた由緒ある正統の流派なることを主張した。法定之形に、打たぬ太刀を取入れた。兵法は「立たざるさきの勝ちにして 身は浮島の松のいろかな」と、師の詠んだ詞につなげて有名な歌を作った。辞世歌は「極楽と思ふ心のはかなさに ついに成仏とげぬものなり」 |
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七代山田一風斎藤原光徳(一六三八・寛永十五年〜一七一六・享保元年) 山田平左衛門尉藤原光徳一風斎は、永井伊賀守の家臣である。本名は長沼で、山田は母方の姓で、野州烏山に生まれる。光徳は志篤く、熟練して良く正統の術を得たので、師の高橋重治は手ずから、直心正統の的伝の印を押して、光徳に伝授した。光徳は若い頃、仕合稽古中に大怪我をして修業を中断していたが、高橋道場では、「面、手袋アリ而怪我ナキヤウニ、身ヲシトミ稽古スル」と聞き、三十二歳の時に師の高橋に入門した。熱心に習練した上、正統派の極意の徴意、秘伝、口伝まで残す処なく師伝を受け、免許皆伝となったのは四十六歳の時で、大器晩成の士である。光徳は思案するに、本流は神陰流の正伝である。二代上泉は新陰と改め、三代奥山は神影と改めた。代々流名を改めたが陰、影の尊称は消えなかった。六代になって、正統を主張して、陰に代って正統となったのである。直心とは、元より人の生れつきの直き心であるから、是は神の心に通ずる。従って、古の神伝、神影の正統なところを、正しく後世に伝え、また古き流名の影の字をもって古を尊ぶよう、五代傳心斎の意をくんで、直心影流と流名を改めたのである。宇宙の森羅万象は全て自己の心の影である。したがって直き心であるべきで、この命名は最も妥当であり、以後流名の変更はない。各代で流派名称が変わることを嘆き、後世では変えないことを約束させた。行年七十八歳であった。 |
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八代長沼四郎左衛門尉藤原国郷(一六八八・元禄元年〜一七六七・明和四年) 長沼国郷は山田平左衛門の三男である。八歳の時から父に剣を学び、造詣の深いことでは当時匹敵する者はない。二十二歳で、高齢である父から独立して芝西久保に道場を構え、多年の間に一万余の門人を教えた。直心影流が世に鳴り渡ったのは、この人の功績が大きい。国郷は、韜之形十四本で、手の内は収められるが、個性の異なる各人に、真の心法、理業を会得させる方法は、打合い稽古に限る。しかし烈しい打合いに、互いに傷を受けぬ為には防具が必要であるとして、父一風斎と共に、面、小手(籠手)、胸当てを発明した。今の仕合を本格的に始めたのは、この長沼国郷で、近代剣道の礎をつくった。このような由来から、直心影流の修業者は防具のことを「ナガヌマ」と呼んでいた。それから四十年後の宝暦年間(一七五一―一七六三)に小野派一刀流中西派の二代目中西忠蔵子武が之に胴を充実させて、袋韜を竹刀(撓い)に変えて中西道場で使用した。徳川幕府下の長い平和な時代で、国郷は稽古法や伝書方法を改革して、直心影流を大きく飛躍させた。そして藤川時代に引継ぎ男谷の代に当流は、男谷派、長沼派、藤川派、島田派に別れて、切磋琢磨して大きく花開くのである。 |
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九代長沼活然斎藤原綱郷(一七〇二・元禄十五年〜一七七二・明和九年) 長沼正兵衛尉藤原綱郷活然斎は、元々斉藤正兵衛と名乗り、国郷の内弟子だった。師と共に門人を引連れて、諸方へ行く程の熟練であったので、師の代りに土岐伊与公に召し出され、百石を賜わって家臣となった。それは土岐公がある時、国郷を召して試合をした。土岐公は試合に負けて感心し、臣下となるよう望んだ。国郷はそれを辞退すると、公は、門人でも良いから代りに誰かと望んだ。これによって斎藤正兵衛を養子にして、長沼の姓を名乗らせ、土岐公の家臣とした。辞世の歌は「浮島の松も元より常盤にて 降るとも雪に色は変らじ」 |
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十代藤川彌司郎右衛門尉藤原近義(一七二六・亨保十一年〜一七九八・寛政十年) 藤川弥司郎右衛門尉藤原近義は、九代長沼正兵衛と相弟子である。八代長沼四郎左衛門に入門したが、未熟で見込みなしと、師匠から二度まで断られたが、その度に、強いて頼み込んで修行し、遂に熟練して非凡の名人となった。東都で有名になり、諸大名は勿論、家老や家来達、また剣客達も多数、近義の道場に集まる。その数、数千人を越えたという。入門した者も二千五百人余りで、道場の日々盛んに繁昌して、最も権威のある道場とされた。近義は、道統を優秀な門人赤石孚祐に譲り、長沼に見習い宗家制度を取り入れ、長男の藤川次郎四郎藤原近徳を、藤川派の宗家としてたてた。しかし、近徳は三十八歳で亡くなり、近徳の実子近常が継いだが、十一歳で亡くなる。寛政二年四月、七十二歳で逝去した。近常を継いだ藤川整斎(藤川派三代目)の祖父。 |
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十一代赤石郡司兵衛尉藤原孚祐(一七四九・寛延二年〜一八二五・文政八年) 赤石孚祐は、藤川近義の門人で正統の的伝である。能く精錬して明達したので、安永六年に師から許可を得て道場を下谷車坂に開いた。教えを受ける者多く、大変に盛大を極めた。後に浅草本願寺の北方に移る。藤川近義の実子近徳は、父親の後押しもあり、独立して藤川派の第一代道統者になったが早死した。そこで、近徳の実子近常が継いだが、幼年だったので、衆議の決定に従い、赤石は近常の後見人となって十三年間力を尽くし、自分の門人も藤川派の門人も多数仕込んだ。近常は成人しても病弱だった為、弟の貞近が三代目として藤川派の伝承を受けた。貞近こそ、有名な藤川整斎である。外国の艦船が、鎖国日本の沿岸に現われはじめた頃、道統者、男谷下総守静斎は、国防のためには武道振興こそ重要だと思い、打合稽古を中心に他流派との交流を積極的に行い、竹刀の長さも、三尺八寸に抵抗なく変更した。整斎は直心影流の伝統を守るためこれに反対して、流派の秘密主義を徹底させ、竹刀の長さは三尺三寸を維持して形稽古を中心に行っていた。その頃の江戸時代、同じ流派でも、進歩派の男谷派、伝統派の藤川派といわれていた。 |
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十二代團野真帆斎源義高(一七六一・宝暦十一年〜一八四九・嘉永二年) 團野源之進藤原義高真帆斎は、赤石孚祐の正統の門人である。幼年より、剣術修行に精を出し、若くして熟達したので、本所亀沢町に道場を開き、門人の教導に精を出した。その教えは丁寧親切を極めたので、門人は良く教えに服し、十三代目を継ぐ男谷や、戸田一心斎などのような傑出した者が多い。團野は特に男谷に期待をかけ、若くして免許皆伝を与え、麻布狸穴に自分の道場を開く事を許可したが、真帆斎が老衰すると團野道場の師範代となり、やがて御書院番という正式な役職につき、後に道場を譲り受けた。安政元年七月、八十九歳の高齢で逝去。 |
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十三代男谷精一郎源信友(一七九八・寛政十年〜一八六四・元冶元年) 男谷精一郎信友静斎は、幼名新太郎。男谷は團野義高の的伝正統の門人である。師が驚嘆する程の天分を示す。兵法は平山行蔵、槍術は宝蔵院流、弓術は吉田流で、諸葛孔明と楠公が敬愛の書であった。安政五年、本所亀沢町に道場を開き、諸候を始め入門の諸士は二千人を超えたという。男谷が文政六年に印可を受け、二十六歳の時に麻布の狸穴に道場を開いた。その時、彼は男谷派を名乗り、免許までの四段階を独自のやり方に変えた。男谷道場での段位認定試験は門下生が多いため、狭い道場では収まりきれず、野外が多かった。朝日が昇ると始まり、午後の試合は免許同志の御祝儀試合となる。これは高段者が後輩に花をもたせ、わざと負けてやる餞別試合が多く、道場を巣立つ者に祝儀を送るしきたりである。全ての試合が一本勝負だが、最後の試合が終了する時は、陽が西に沈んでいたという。 |
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十四代榊原鍵吉友善(一八三〇・天保元年〜一八九四・明治二十七年) 榊原鍵吉源友善は、男谷下総守信友の的伝正統の門下である。徳川家累代の直臣で、父益太郎友直は軍学に造詣が深かった。幼少より剣術を好み、十三歳の時に男谷精一郎の門に入り、剣術にいそしんだ。次第に技が進み、先輩を凌ぐようになったが、段位に拘らなかった。安政二年、幕府が講武所を設置するや、男谷の門から、教授方の一人として就任した。中でも鍵吉は二ノ丸御留守居格で、三百俵を支給され、朱塗の槍を立てて登城する身分となった。朴訥で正直な性格は十四代将軍家茂公のお気に入りとなり、剣術指南役に指名され、近くに召された。京都上洛の時は、槍の名手で同門の青柳熊吉と共に供して、守護の任に当った。同門の勝海舟も家茂公に引立てられて軍艦奉行(千石)に昇進し、その後、安房守に任命される。直心影流の三人組が、特にお気に入りであったが、慶応二年七月二十日、若き将軍家茂が二十一歳で大阪城内に薨去した。 |
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十五代山田次朗吉一徳斎(一八六三・文久三年〜一九三〇・昭和五年) 文久三年九月十一日、千葉県富津郡富岡村の名主与吉の長男として生まれた。明治十七年十月、富岡村に強兵館道場が造られ、開場式に、榊原鍵吉が出席した。当時二十二歳の山田は、榊原の威容剣風を目のあたりに見て、直ちに入門を決意した。山田は翌十八年九月、家出同然で上京して、榊原道場に入門した。明治二十七年元旦、榊原は祭壇に登り、恭しく祝詞を奉し、終って静かに一同を見渡してから「山田次朗吉」と呼び出した。前に進み出ると、「私は、先師男谷下総守先生より、永らく直心影流の目録をお預りしていたが、本日神宜により、汝山田次朗吉にこれを渡す。謹んで御受けせよ」といい渡した。「自分の腕はまだ未熟である、これはお預りするのだ」という気持ちで受けた。かくして次朗吉は、直心影流十五代を継承した。拝受した伝書は全部で九巻。この年の九月、重荷を下した榊原は他界した。翌十月、師に代って正統継承者の証しとして、北白川宮成久王殿下並びに輝久王殿下の師範を仰付けられた。三十二歳であった。明治二十八年、同門諸氏の勧告に従い、下谷車坂の榊原道場を再興して、門人を教導する。同年、戦_記念武道大会に出場して名声大いに挙がる。明治三十四年五月、東京高等商業学校(一ツ橋大学)剣道部師範となる。明治三十五年四月、東京帝国大学剣道師範となり、同三十八年五月辞職する。明治二十二年、駒場農林学校(後東京帝大農学部)剣道部に榊原の代理を務め、三十六年四月、正式に師範となり、大正十五年九月辞職す。 |
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十六代川島堯(一八八三・明治十六年〜一九五七・昭和三十二年) 幼い頃から剣術を学び体格巨大不撓之精神を持ち、日露戦では海軍軍人として旗艦三笠に乗り日本海戦に従軍した。後に台湾に警察官として渡り、剣道、弓道を指導した。剣道は男谷門下生の青柳能吉、後に養子になり名をかえた信太歌之助に学ぶ。大正十四年六月に山田の直門になり直心影流を極める。山田は川島を当流の後継者に嘱望したが「戦時中、台湾にて多数殺めた」という理由で道統継承を辞退して昭和三十二年八月十七日逝去、享年七十六才。戒名「武徳院弓範堯誉清居士」。昭和三十八年八月に横芝不動院での川島先生七回忌法要に於いて大西英隆は「ここに山田先生の御心中を察し晩年の川島先生の御心持を推察して川島先生を直心影流第十六代に推戴する」「私も亦直心影流責任者として十七世に就任す」と宣言する。(大西英隆先生剣道随筆「祭文」より)。 |
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十七代大西英隆百錬斎(一九〇六・明治三十九年〜一九六六・昭和四十一年) 東銀座に生まれ、江戸っ子。東京商科大学に入学してから剣道部に入部、山田次朗吉師範の指導を受け、学問よりも、剣道の修行に熱心で殆ど道場で時間を費やしたというが、卒業の成績は二番であった。大西は山田の薫陶を受けて、処世にそのまま役立つ剣の道を修得した。山田が大西に道統十六代を継ぐように求めたが、師の死に水を取った時の大西は、まだ弱冠二十四歳であった。「歳を重ねた後に直心影流を継いで後世に伝える」という約を山田と交したと伝わる。卒業後、学校に残り教授コースを歩みながら剣の道を追い求めていくつもりでいたが、請われて安田本社に入社、たちまち頭角を現した。四十歳にして安田の重役になり、将来は代表者ともなり得る人であったが、終戦の時は香港に居て、東南アジア地区の責任者であった為、追放となった。それは大西個人には大変な不幸であったが、直心影流の道統の為には幸いであった。戦後、禁止されていた剣道が再開されたが、その内容はスポーツ競技に変わっていた。勝敗を競う競技としては合理的であるが、競技以外の何物でもないと剣道の将来を憂いた。柔道でも国際的にはなったが、試合に重量制を採用して、「柔よく剛を制す」という基本を外れることを嘆いた。この状態を憂いだ大西英隆は、恩師の死後、何とか真の武道を残していきたいと強い意志を持ち、昭和三十一年六月、会を創って同志を集めて、直心影流の稽古を始めた。その会の名を、師の道場「百錬館」より「百錬会」と名付けた。母校東京商科大学の剣道部に、法定の稽古を復活。新たに高崎経済大学剣道部や、早稲田大学の同好会などで法定を指導。丁度その頃、大西は幼馴じみの早川幸市と久し振りに銀座で再会した。「大西は小さい頃から何をするにしても私の弟分だった」と云う仲であった。その頃大工棟梁で建築業を営んでいた早川兄が「今何をやっているのか」と聞くと、「学生時代に山田次朗吉と言う先生に直心影流を学んだが、若い時にはこの武道がいかに大切な事だったか理解できず、今になってやっと悟り、山田先生の遺志をくんで剣道に励んでいる」と話す。「そんな大切な流派の剣術を学んだのなら、私が力になろう」と百錬会行司元に就任して、戦後GHQの武道禁止令で絶滅寸前にあった直心影流の再興を見守った。昭和三十八年十一月、直心影流第十七代就任記念祝賀会を行い正式に十七代を継ぐ。式典は鶴見道場、祝宴は長寿庵で行われた。百錬会会員の他、佐々井信太郎文学博士、青木春三氏、上田美枝氏、早川幸市氏等来駕。その後取り組んだのが、段位を戦後の武道状況に合わせるための再考であった。段位は五段までで、六段で免許傳、免許皆傳を与えるのを当流の伝統にした。大西は、霊剱傳の内容が学生達には難しい事と口伝されている項目が多いという理由から、分かりやすく、目録傳位初段、目録上位二段、霊剱傳位三段、霊剱傳上位(窮理傳位)四段、極意傳位五段として段位の順序と呼称を変更した。志半ばにして昭和四十一年九月、六十歳で逝去。戒名は「百錬院釈英隆居士」。大西師範から百錬会九周年記念会の場で免許皆伝を授けられた門弟は西尾佳、並木靖、犬竹秀明、赤尾勇一、伊藤雅之の五名であった。その後、大西の流れを汲む百錬会は本多健二、青木高彦に免許皆伝を授けた。生前大西から伊藤が道統十八代を継ぐ旨になっていたが、大西の死後、西尾、赤尾、犬竹各師は「百錬会」に残り、早川を後見人として伊藤の先輩、並木が伊藤をさそって「宗本部」に分裂、後に並木の率いる「法定会」に分かれた。
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昭和の証言
ー 剣法の柱だった由緒ある鹿島神傳直心影流への想い出 師範 渡邊 時次 |
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