五百年以上の歳月をかけて、十五人の優秀な武人達が創り上げた日本を代表する形である。流祖備前守と二代伊勢守が、鹿島之太刀の基本を実戦の中から練り、
法定之形五本を創り上げた。木剣で法定を行い、真剣を用いて法定の裏をつくった。後に、真剣に馴れるため
刃挽に変え完成した。四代源信斎が、法定を大自然の運行(
春
夏
秋
冬
)として四本にまとめ、剣道の原点の形を創る。更に法定を基に、
韜之形の十四本を加えた。五代傳心斎は、小太刀之形
を六本精華させた。七代一風斎は、寸止めの韜之形では満足出来ず、三男八代長沼国郷と共に防具を発明して、形と仕合剣道の流派を平和な江戸時代の剣道として確立。十代、十一代、十二代眞帆斎の三代で、多才な人材を育て、江戸時代の直心影流は、隆盛を極めた。十三代信友静斎は、江戸幕府の講武所の頭取として君臨し、徳川家の柳生新陰流と共に武道界の頂点に立つ。六尺もある十四代鍵吉は、兜割で当流の実力を示し一世を風靡した。十五代一徳斎は、仕合剣道に偏り気味だった当流派に、もう一度、藤川派に残っていた当流の法定から丸橋之形
を再現して元の流派の姿に戻した。この状況については、参考のため、書「一徳斎山田次朗吉傳」の「修業時代」の中から転載した。この考え方こそ、鹿島神傳直心影流のこれからの進んでいく道程である。 |
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型を修業す 千葉周作の「剣法秘訣」中に、周作が未だ中西門下に修行していた頃、同門内で寺田宗有といふ組太刀―型―の名人と、韜打ちー地稽古―専門の人達(高柳又四郎とその取り巻きだと思われる)とが、優劣を争つたといふ話が出ているが、それは啻に一刀流門中のみのことではない。各流ともに韜打ちと型とは劃然と派が分れていて、相互に蔑視し合つていたのである。直心影流に於ても御多分に洩れず、両者は犬猿の仲であつた。然るに先生(山田次朗吉のこと)は「韜打ちと型とは恰かも書道に於ける楷行草の関係の如きものである。これは相排し合ふべきではなく、寧ろ兼修すべきものである」と考へたのであつた。一日榊原先生に向つて恐る恐るこの考へを述べた。榊原先生は韜打ち専門で型は全然遣はれなかつたのであるが、流石は一派の大家である。諄々として説く先生の言葉を終始微笑みつつ聞いていたが、やがて大きく肯いて「それはよい考へだ」とて。賛意を表された。のみならず先生の考へを卓見なりとして稱揚し、自ら節屈をして當時の型使ひの名人山田八郎に紹介の労まで執られた。 山田翁は非常な名手で、その頃既に七十餘歳の老人であつたが、未だ腰も曲らず、矍鑠として壮者を凌ぎ、眼光は炯々として人を射るの概があつた。會つて山岡鉄舟居士は、翁の「丸橋之型」を見て「剣道にも深遠ここに達したものがあつたのか、この型があれば必ずして修禪の要はない」と、讃歌措かなかつたといふことである、また翁は常に「剣術使ひは防具を便りにするから眞剣になりきれないで、單なるたたき合いに墮するのだ。眞に生死の際に泰然たる活人物になるには、型によつて練らねばならぬ」と、主張していた。 求道の念に燃えた先生は、榊原道場の稽古を終つてから、疲れた體でしかも遠路を、雨の日も風の日も、或は大雪の際にも、一日たりとも欠かさずに翁の許に通ひ詰められた。然るに山田翁は、如何に路が遠からうとそんなことには一向頓着せず、一日一本しか稽古をつけられなかつた。血気の先生は切歯扼腕、脾肉の歎に堪へなかつた。冬の朝などは一本の稽古では體が温るまでにも至らないので、ある日堪り兼ねて「今一本御教授を願ます」と懇願せられた。すると翁は空嘯いて「今一本使いたいならば、明日来られたらよからう」と、一言の下にはねつけて了はれた。其様に一日に一本しか稽古が出来ぬとなると、その一本は眞に捨命抛身して眞剣に成り切らねばならぬ。そのやうな眞の一本は、其場に臨んでの當座の努力のみでは到底出来るものではない。「此の一本を!」この心は、行住坐臥に修練の鞭となつて、先生を責め立てるのであつた。流石に山田翁の見識は高かつた。所詮は心気の錬養にある以上、ダラダラと数多く教へたとて、それが何にならう。眞剣の一本は、気の乗らぬ萬本にも勝る事数等である。 先生の不抜の精神は千辛萬苦を克服して、遂に法定、小太刀、韜之型から、刃挽、丸橋に至るまでの、直心影流の全傳を會得せらるるに至つた。其の間の苦心、努力は筆舌の能く蓋すところではない。 明治二十八年に、代々木の原で戦捷奉祝の武道型大會が擧行された事がある。その時集つた各流の先生達の使ふ型は、悉くが輕佻に非ざれば華法、華に非ざれば未熟で、殆ど兒戯に類するものとして、観衆の嘲笑を招くのみであつた。所が一度び山田翁と先生との必死の刃挽の型が演ぜらるるや、満場寂として聲なく観衆一同手に汗を握り固唾を呑んで、その神気に打たれ、その妙術に醉はされたといふことである。 かくして従来相排擠し合つていた型と韜打ちとは、直心影流に於ては先生の苦心によつて全く統一されることとなつたのである。 |
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鹿島神傳直心影流の形は下記の通り全部で五形である。(写真をクリックすると拡大されます) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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